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【父の日】パパへ、難聴にも感謝してるよ

私はいつも自分自身を「お父さんっ子」と考えていました。わたしは映画によく出てくる典型的なステレオタイプではありませんが、やはり「お父さんっ子」です。

 

私達の父娘の関係は、私が幼児のときに出来上がったことは確かです。私の父は私たちのナニー(ベビーシッター兼家政婦)の目を盗んで、私と兄にオレオクッキーを与えることが大好きでした。私たちの絆は、私が高校、大学時代に馬術競技に夢中になったとき、陸上のトラック競技やクロスカントリーに挑戦したとき、南西部の乗馬クラブに所属したときに強まっていきました。

 

父は私に愛、機会、安心と希望を与えてくれました。彼は私の馬術競技のコーチでもありました。私の馬が亡くなったとき、私は父の肩で泣きました。そして私が家で過ごしたいときは、一緒に映画を見てくれる一番の友達でした。

 

 

親愛なるお父さんへ

私の最大の味方になってくれてありがとう

しかし、私の父はそれだけではありませんでした。父は難聴の私が必要な援助を受けるように、私を導いてくれた最大の恩人でした。私には、援助など受けたくない時代もありました。父は私が読んでいる本にパンフレットをこっそり入れたり、私を彼のオージオロジストのところに連れて行ったりしてくれました。何とかして、私に自分の難聴を理解させ、認めさせようとしたのです。私は父の努力を拒絶して、父の電話やメールを無視したこともありましたが、最後に援助の必要性を認識した時に、私が頼りにしたのは父でした。

 

なぜかって?私の赤褐色の髪の毛と同じように、私の難聴も父から受け継いだものだからです。そして昨年私は、難聴を誇りに思うこと、他の難聴の人を助けること、私の補聴器を信頼し愛情を持つことを父から教わりました。

 

 

親愛なるお父さんへ_1難聴をいつも隠さずにいてくれた父への感謝

 私たちの家族にとって難聴はごく普通のことです。私たちはよく夕食のテーブルで補聴器のことを話しましたし、話を誰も理解してない状況や、お互いに言われたことの半分しか聞こえていない状況にも慣れっこでした。私は父と父の2人の兄弟が難聴に苦しんでいるのを見て育ちました。そして難聴が私への影響を与え始めるにつれて、私は沈黙していても大丈夫なテーブルの端に席を取るようになりました。私たちは全員が、蝸牛の神経細胞に進行性の損傷を引き起こす、遺伝的な要因による感音性難聴でした。

 

私は恥ずかしさに耐えながら成長し、自分の難聴に関わることを長い間隠し続けました。一方、私の父は自分の難聴を決して隠しませんでした。父が難聴の事を恥じているところなど、一度も見たことがありません。父も挫けそうなことがあったでしょうか?-はい。悩んでいたでしょうか?-はい。それでも父は難聴のことを恥ずかしいと思う態度や表情を見せたことはありませんでした。

 

父は重度の難聴です。右耳は12%の語音明瞭度しかなく、左耳の語音明瞭度は44%しかありません。たった一度の銃声が父の右耳の難聴を悪化させ、耳鳴りも引き起こしました。現在、56歳の父と25歳の私はほぼ同程度の難聴です。

 

親愛なるお父さんへ_2

 

難聴でも普通に出来ることを見せてくれてありがとう

父は私が物心ついた頃から難聴でした。そして今までに、ほぼ全てのブランドの補聴器を装用してきました。父は補聴器を恥ずかしいと思ったことも決してありませんでした。父はRIC(Receiver-In-the-Canal)タイプや、お洒落なBluetoothヘッドセットや、大きな太いチューブのBTE(Behind-The-Ear)タイプを装用してきました。父にとって見た目は問題ではなく、性能が重要でした。

 

補聴器を隠す必要などなく、お気に入りのカフェで一緒に食事をしている時に私の話が聞こえることが重要なのです。人々に難聴の事を伝えるのを避けるための補聴器ではありません。初めて会う人には、父は一番初めに必ず聴き取りが不自由なことを伝えます。最新の技術や洗練されたデバイスを持つことも重要ではありません。新作の映画のセリフが聞き取れて、騒々しいレストランで友達と昼食を取ったり、車や自宅で音楽を楽しんだり、そして世界から孤立することなく、自分も世界の一部のように感じられることが重要なのです。

 

私の聞こえの旅路の全てを支えてくれてありがとう

私の父は、私が助けを望んでいないときでさえ、私自身の難聴との闘いを支えてくれました。1年以上前のクリスマスイブの日に、私は聴力測定室のブースの中で涙を流していました。父は全てを理解して、微笑んでいました。私はPETボトルをくしゃくしゃにする音と、部屋の向こう側のプリンタから落ちる紙の音が聞こえたのです。父も母と一緒に泣いていました。父は私が難聴のために誰かを責めずにいられない時は、パパに向かって叫ぶようにと言っていました。彼はまた、耐え難いほどの絶望に襲われた時の私の言葉に何度も耳を傾け、抱き締めてくれました。

 

 

かけがえのない大切なものに対しては、感謝するのも容易ではありません。与えてくれたものを本当の意味で返すのは難しいことですが、3月に私の父親に新しい補聴器をフィッティングする機会が与えられたとき、それは運命のようでした。

 

いつも私のことを一番に考えてくれてありがとう

 初めは、父は新しい補聴器は必要ではない、お金を節約しなさいと言っていました。その時に父が使っていた補聴器は大きなBTEタイプで、父は認めませんでしたが、父が必要とする性能を持っていませんでした。父が1対1の会話で聴き取りに苦労しているところや、家族の集まりの中で黙って座っているのを私は見ていました。言葉と雑音を聞き分けることが出来なかったのです。電話で話すときも、父が首に巻いていたBluetooth付きの電話接続器は全く役に立っていなくて、私は父と電話で話すときには補聴器を外してもらうように頼まなければなりませんでした。酷いことを頼んでいるのだと思うと辛かったのですが、その装置は間違いなく会話をより困難にしていました。音楽を聴くのは?私は、父が最後にCDやラジオを聞いていたのが何時だったのかも覚えていません。

 

私は何年もの間、父が苦闘し、気落ちし、孤独に苛まれているのを見てきました。父にとって音楽や映画が楽しみの代わりに苛立ちのもとになるのを見てきました。そして父の「もう無理だ」という瞬間をあまりにも多く見てきたのです。

 

貴重な贈り物とは高価なものを意味するわけではなく、お金に替えられない何かを受け手にもたらすものであり、そして人の人生を変えるようなもののことです。

 

私のパパでいてくれてありがとう

 

父が新しいHalo 補聴器を装用し始めてから1ヶ月余りになります。電話で話すとき、父の声に自信が戻ったのが分かります。夕食を作っている時に電話をかけると後ろで音楽が鳴っています。新しい補聴器を友人たちが絶賛し夢中になっていると話してくれたとき、父の笑い声には喜びが溢れていました。友人との誕生日の昼食会での信じられないような体験を話してくれた時には、父の興奮が伝わってきました。

 

父はもう、聴き取りに苦労して疲れ切ってしまうことはありません。家族の夕食や行事の中で孤立することもなく、会話に加わり話をリードするようになりました。父は今、幸せそうです。私が父の腰の高さにも届かない小さな子供だった頃の、恐れを知らないヒーローのような父が戻って来てくれました。

 

父は私に、自分の難聴を誇りに思い、補聴器を誇りに思う力を与えてくれました。障害が人間を定義するのではなく、人間が障害を定義するのだということを教えてくれました。私は父から難聴を受け継ぎ、今それは私たちが心から分け合いたいと思う大切なものになったのです。

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