前回の記事では、科学的な発見と技術の変化の速度が一般論としての研究、ならびに補聴器という特定分野の研究に与えるインパクトの大きさについて見てきました。今回はそのような変化が未来の日常で使われる技術にどのように表れるのかを、より詳細に見ていきたいと思います。第1回と同じく、スターキーの研究開発部門のバイスプレジデントであるサイモン・カーライルの執筆記事です。
スマートデバイスという技術の織物
今回の話題では、二つの技術の力が主な役割を演じることになります。具体的には、演算能力と接続性です。これは、非常に影響力の大きい技術が力の拠り所となる背骨の部分に相当します。仮にたった一つの支配的な概念があるとすれば、それはユビキタスコンピューティングです。優れたコンピューター科学者であるマーク・ワイザーが1991年に有力な科学誌サイエンスの自分の記事「21世紀のコンピュータ」の中で使った言葉です。パロ・アルト・リサーチセンターのコンピュータサイエンスのトップとして、彼はネットワークで繋がった”スマート”デバイスという技術の織物によって緻密に編み合わされた未来の世界を心に描いていました。彼が心に描いたのは、マクロから細かい個人的なレベルに至る私たちの環境のすべてを管理できるネットワーク、すなわち送電網から朝のカフェラテの抽出時間や温度に至るまでのすべてを管理できるネットワークです。
未来への準備はすでにできています
しかし、これらのデバイスは、システムへの入力機器でもあります。それがデータが集積する巨大な中心、今の我々にはお馴染みのクラウドに向かって、巨大な川のような情報を送り込む検出器やセンサーです。これらの中の多くの物は、現在、既に存在するものです。
それはスマートフォンであったり、ウェアラブル端末、ヒアラブル端末であったりします。これらのデバイスは私たちに生活上の様々なメリットをもたらしてくれます。健康、仕事、パーソナリティー、エンターテイメントに関わるものです。そしてこれらのデバイスの洗練度合いと生体情報モニター機能は常に進化しています。更に加えて、これらのセンサーの中のいくつかは、消費者の行動に関する高度かつ詳細な情報を提供します。キャッシュレス取引、公共交通機関にいつ、どこで乗って降りたのか、タクシーやUber(オンライン配車サービス)の利用歴や飛行機の予約、フェイスブックへの書き込み、地図アプリへの住所入力、路上の監視カメラ、あなたのIPアドレス、クッキーやブラウザの閲覧履歴等々です。
プライバシー(それがまだ確かに存在するならば、ですが)の問題にもかかわらず、私たちの持つデバイスは何らかのデータをクラウドに向かって送信すると同時に、私達自身にも送信し、そしてそのような仕組みのデータを世の中に公開しているのです。このビッグデータと呼ばれるものはまさに現実であり、これからの未来をつくる現実であり続けます。そして、今日の私たちが目にしているスマートフォン、ウェアラブル端末やヒアラブル端末の革命的ともいえる能力も、まだ始まったばかりなのです。
サイモンが見たセルンという出発地点
今日の状況を見ていると、私は1998年に幸運にもWorld Wide Web会議に出席した時のことを思い出します。1989年にセルン(CERN=欧州合同原子核研究機関)でティム・バーナーズ・リー(World Wide Webを発明した人物)が働いていた時、セマンテックウェブというアイデアを提唱し始めました。それは機械同士が相互に効率的にデータのやりとりをするための方式でした。それから何年かの間、システムの規格化と実現のために多くの労力が注がれましたが、同じ時期に始まった二つの大きな技術開発の陰に隠れてしまったようにも見えました。一つはテキストと音声の両方を使う自然言語処理であり、Siri(Apple社)やGoogle Talk(Google社)、コルタナ(=Cortana、Microsoft社)として実現しました。一つは、認知神経科学の進歩とコンピュータの演算能力、進化した機械学習によって、私たちは再び人工知能(AI)が、そしてSuper Intelligenceと呼ばれるものが産声を上げるのを目撃しています。
未来の補聴器をイメージ
さて、私たちはこれらの深遠な技術を利用して、聴覚技術(ヒアラブル)を、そして補聴器をどのようにデザインできるのでしょうか。この素晴らしい新世界で未来の補聴器がどのようなものなってゆくのか、少し覗いてみましょう。
使用者の周囲の世界に耳を傾け、その複雑な音の世界を分解して相互に関連する断片を明らかにし、混沌の中から意味のあるものを聞き分けてくれるような補聴器を想像してみてください。
その姿は脳の働きに同調させて使用者の関心の対象を特定し、脳が情報を符号化する時に対象音源から発せられる情報を強調してくれる補聴器かもしれません。あるいは、単に聞こえを良くしてくれる補聴器ということではなく、他の人や機械とのコミュニケーション経路として使用者が一日中身に着け、エンターテインメントとして、脳や身体のモニターとして、空間の中で移動した経路をマッピングしたりできる補聴器かもしれません。
そのようなヒアラブル端末は、適切に動作モードを切り替えることで、過酷な聴取環境の中で聴覚の健常者と難聴者、分け隔てなく支援するものとなります。未来のヒアラブル端末は、聴覚系と神経系の両方と協働して理想の聞こえを作り出す、と言うべきでしょうか。
このシナリオの中で最も驚くべきことは、世界の先進的な研究機関(スターキーの研究所も含む)においては、そのようなデバイスを実現するための技術が準備中であり、部品の多くは既に存在しているということです。もちろん、それらは述べたようなビジョンを実現するのに必要なレベルの精緻さには達していませんし、人々が耳の中に入れて使える形にはなっていません。しかし、それらの技術はすでに存在しており、この二十年ほどの間に見てきた科学技術の進歩から考えれば、ユニバーサル・ヒアラブル・バージョン1.0の登場は私たちが考えるよりもはるかに早いと考えて良いのではないでしょうか。